儀  仗 7

 今宵、博雅は宿直とのいであった賀茂保憲と、陰陽寮で向き合っていた。無論重信のことを頼む為だ。

 常とは異なる香をくゆらせていた室内の空気を、意識して吸い込む保憲。

 「困りましたね。」

 全く困った素振りを見せず、保憲が呟く。その目の前には対面で且つ下座に座している博雅が、不安そうな顔で保憲を見つめている。保憲は博雅にしつこいまでに上座に座るよう促したのだが、頼み事をするのだから何が何でも上座には座らないと言い張った為、渋々上座に着く羽目になったのだった。お願いではなく命令すれば済むことだろうに・・・・・。そう保憲は胸中ぼやいたのだが、その源博雅という殿上人がなかなかに頑固であることを知っていたので、彼の意思を尊重した。

 初めは彼の話を興味本位で聞いていたのだが、思いの外厄介な言い訳を考えてくれた重信に対し、保憲は頭を抱えたくなった。

 「そんなに難しいことなのですか?」

 動揺を隠せずおろおろとする博雅を前に、保憲はまさか尚意したいからとも言えず困っていた。彼の実力を持ってすれば口裏を合わせ、重信の症状を偽装すること自体は出来なくはないのだ。ただ一言言ってしまえば、「面倒臭い。」その一言に尽きるのだ。

 博雅から視線を外し、そっと睫毛を伏せると、軽く肩で溜息の感を漂わせた。そして次にすっと力強い双眸そうぼうで博雅を捕らえると、陰陽師としての職業顔で応えた。

 「承知致しました。」

 凛とした声が薄暗い部屋に響き渡る。それが合図となったのか、博雅の緊張が見て取れるくらいの勢いで抜けていくのが彼には分かった。

 「良かった。何卒お願い致しまする。」

 そういって平伏した博雅に対し、保憲は非常に慌てた。誰かに見られでもしたらという懸念と共に、もっと殿上人としての自覚を持って欲しいとも、このままずっと素直な御仁でいて欲しいとも、何とも複雑な思いの糸が保憲の心を絡め取る。

 「博雅様。お願いですからご尊顔をお上げ下さい。」

 その言葉に素直に従い、博雅は顔を上げるとまなじりに浮いた涙を拭い去った。

 「博雅様。出過ぎた事を申し上げますが、ここに戻られ殿上してあまり日月が経っておらぬので無理からぬ事と思いますが、もう少し殿上人としての自覚をお持ち下されませ。」

 保憲の言葉をきょとんとして聞いていた博雅だったが、言わんとしていることは理解出来たらしい。しっかりとした返事と共に顎を引いた。が、次の瞬間ビクッと肩をすくめた。風が揺らした扉の音に驚いたのか、しきりに己の後ろを気にし始めた。

 「風が強うなってまいりましたな。」

 安心させるように言った保憲の声も届かないのか、博雅はそわそわと落ち着きがなかった。不審に思った保憲が声を掛けようとした時、博雅の方が先に口を開いた。

 「あ、あの、話の途中で申し訳ないのですが、ちょっと手水ちょうずに・・・・・・。」

 そういい終えるか否かのうちに立ち上がると、盛大に足音を立てて博雅は去っていった。彼が向かった方向を確かめると、保憲は一人苦笑した。風のように去っていった彼に同調するかの如く、夜風が強さを増していく。

 「これでは俺も行かねばならぬかなぁ。」

 保憲は一人ごちると、手水に立つと言い残していった博雅の後を音もなく追いかけ始めたのだった。今宵のように漆黒の直衣を纏った保憲の姿は、瞬きするほどの間に新月の闇の中に溶け込んでいった。

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